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中年期の孤独とSNS

https://www.theguardian.com/commentisfree/2015/jul/14/midlife-lonely-isolated-social-media

40代、50代の人々は孤立感をより感じるとの報告が増えている。ソーシャルメディアは魔法の薬のように見えるが、苦い終わり方をすることがある。

孤独感をより強く感じる人が増加しているという最近の統計分析や報告の中で、最も強い印象があるのは、他のどの年齢層よりも、中年を迎えた人達が孤立感を感じて居ることだ。(英国の)国家統計局によると、45歳から54歳の年代で、7人のうち一人の割合で、孤独感に悩んでいる。

中年期は私たちの可能性と自由が急激に縮小しているように感じる人生の段階だ。そこでは我々の「自分誰なのか」という意識は、多くの人生の側面からの圧力によって制約を感じ易くなる。これは、単に手の運命は私たちを扱ってきましたです。失望と達成感を感じられない仕事、疲れが募る家庭生活、そして私たち自身や家族の健康の不安は逃げ場がないという感覚によりいっそう強く感じられる。単に、自分では何もできない感覚だろう。孤独感をどのようなものかを想像するのは難しいことではない。

中年期に感じるこのような後退感は何も新しいことではないが、国際化が進み、世界とずっとつながっているような消費資本主義の時代には新たな力が必要になる。人々の生活は、心理的、経済的にこれまで以上に不安定だ。安全な将来の保証と思っていた家族、家庭、仕事、そして年金は今では、生活を不確実なものにしている。更に悪く考えるなら、我々は後悔だけの過去と絶望的な未来の間に挟ましているかのように感じるだろう。

このような不安定な状況は、他人と自​​分自身の判断への我々の弱さを良くない方向に導く。中年期の人は、もっと素晴らしいことをできたかもしれないが、結局、希望と理想を叶えることに失敗した姿を鏡の中に見いだす。

この時点で、変わることへの希望は何か?仕事や家族への失望がどのようなものでも、どちらかを諦めることは、いっそう悪く感じるかもしれない。自分の体型、衣服や車、音楽の好みを変えることはできる。しかし、視界の片隅から、若い人々、おそらく10代の自分の子供達の皮肉な嘲笑を感じるだろう。さらに悪いのは、自分自身、同じように感じていることだ。。

ソーシャルメディアは、理想的な薬のように見えるかもしれない。もし日常の現実が煩雑で灰色と感じるようになってきたのなら、オンラインの世界は、あなたがなりたい人を投影し、自己を作り直す機会を与えてくれる。 SNSは、あなたの価値感と人の良さが安定していることを示しながら、あなたの暖かな個性を作り出す。しかし、孤独感を追いやっても、それは直ぐに戻ってくる。理想の「自画像」は結局、防御的な鎧に過ぎず、オンラインでの楽しげで社交的な「自分」と、オフラインの孤独な生活との乖離は自分への失望になる。更に、オンラインでの上辺だけの親しみ易さにひびが入り、逃れようとしていたとても強い孤独感にとらわれてしまう微妙な挑発と直接な感情が戻るのに時間はかからない。肯定と拒絶は表裏一体だ。

もちろん、ソーシャルメディアは、それ自体の中に、またそれが人々に孤独を引き起こすことはない。しかし、SNSは人々が到達しているしっかりした安定さを弱体化させながら、人々が互いにつながっていることを煽る判り易い表現に過ぎない。

精神分析コンサルティングで定期的に聞く言葉は、メッセイジや電子メイルに返信がないこと、自分の更新情報が無視されたことへの不安だ。不安は、現実と仮想のコンタクトとの間に決定的な違いをもたらす。普通の出会いは緩やかな早さで、誰かと一緒にいる言いようのない喜びを生み出す。オンライン通信は、このような親密さを排除する傾向がある。あなたの隣の人の沈黙は、あなたの孤独感を和らげるのに対して、オンライン上の「隣人」の沈黙は、理由の判らない不安が自分の中で増大する。:私が何をした?彼らがもはや私を好きではないのはなぜだ?彼らは今まで私を好きだったのか?

精神分析を理解する一つの方法は、承認を前提としないコンタクトととらえることだ。ある患者は先週、私に言った: “あなたは、あなたが何を考えているかについてあまり気にせずに、私が話すことができる唯一の​​人のように思う”。私の患者からよく聞くように、中年にさしかかると、我々は親しい友人達に聴いて欲しいにもかかわらず、自分たちを親しい友人から遠ざけようとする。

ジークムント・フロイトが精神分析の中立性と表現したのは診察室で感じるような冷淡さではない。それは中立の立場、そして誰かがどんなことでもカウンセラーに伝えたい時にカウンセラーがそこに居ることを感じることができるようにする意思。精神分析医DWウィニコットは、誰かと一緒にいるこの方法は、孤立感とは異なる、「一人で居られる力」を培うとしている。ロマンチックな詩人が「孤独」と呼ぶものに近い。それは、母親が常に居ることを意識する、小さな子供の頃の感覚に根ざしている。その感覚は、小さな子供が、たとえ一人の時でも誰かが居ることを感じさせる。誰かの存在を感じるこの感覚は、我々が他者に頼ることが悪いことではない、と感じられるようになる心理的な道筋だ。

中年期には、この内側から感じる安寧感は、疑問と不安によって消えていく。現代の消費文化と競争の文化はその感覚を更に弱める。我々が、他者への未熟な希望という不安定な基盤の上に関係を構築する限り、親密さの質よりも、「好き」という量をもとに関係を築く限り、中年にさしかかって感じる孤独感が軽くなることはない。


孤独は危険

https://www.theguardian.com/commentisfree/2015/oct/23/loneliness-health-dangerous-old-age-death

あるラジオ局は、電話をかけてきた95歳の孤独の男性に手を差し伸べた。だが、多くの人は自分自身で孤独であることを対処しなければならないか、早い死を含む健康への影響に直面しなければならない。

ビル・パーマーは孤独だった。パーマーはBBCのラジオ番組にかけた電話でそのことを語り、地元のラジオ局は彼が他のリスナー達へ語れるようスタジオにビルを招待した。ビルの話は反響を呼び、更に多くの助けが彼の元に届いた。

このような注目を集めたのは良いことだと思う。一方で、私の推測を言うと、ビルが本当に欲しかったのは、認知症になる前の彼の妻と一緒に居たかった、彼の長年の友人達と、彼らが亡くなってしまう、もしくは彼らが外出できないほど弱ってしまう前に一緒に過ごしたかったのではないだろうか。我々が他の人達と長い時間をともに過ごすと、お互いの交友関係は変わる。お互いに反発しても、なんとか丸くおさまることで切り抜ける。これは、互いに語ること無くても気分が良くなったり、また、愛する人のからウィンクで彼女・彼が何を伝えたいかがわかることといっても良い。これは、我々が自分の愛する人や古い友人達と議論をしない、ということではない。我々はどうすれば良いのか知っているし、互いに気持ちがつながっている問うことだ。愛する人や友人達とのつながりを失うことは、まるで自分の一部を失うことのように感じられるだろう。

95歳という年齢でも、ビルが、まるで古くからの友人のように感じられる新しい友人を持てることを私は願っているが、それは難しいだろう。我々は孤独になればなるほど、人とつながろうとすることは難しくなる。

かつて、孤独であることは人と交流するのが苦手、もしくは風変わりな性格ととらえれた。その為、今でも孤独であることは後ろめたく、恥ずかしいという意識につながる。しかし、大切なのは、孤独であること、イコール敗者、ではないということだ、孤独は全ての人に影響する。あなたはこれまでホームシック、片思い、また無視された故の屈辱を感じたことはありますか?私たちが他の人たちからの理解やつながりを求める時に感じる空虚な痛み、これら全てが孤独というものだ。

寂しさは、のどの渇きや空腹感のように、必要な感情だ。我々は、その感情を難しい状況の時に見ようとしない。我々は、それについて何かをしなければならない時に寂しさを感じる。寂しさは、早い死を招く危険要因の一つだ。人間は孤独ではない、我々は群れる動物だ。認知症、高血圧、アルコール依存症等は全て、孤独によってより引き起こされる。そして我々のメンタル・ヘルスの低下の主な原因となりうる。孤独は寂しいだけではない、危険なのだ。

孤独が我々にとって良くないことであると判っているのに、何故、我々は例えば夜間の勉強会に参加してもっと友人を作ろうとしないのだろう?何故、友情を戻そうとしないのだろう?悲しいことだが、我々の多くにとって簡単なことではない。何故か?孤独という感情は、社会的脅威への過剰な警戒感を伴う状況を引き起すからだ。そして、私たちが社会への脅威を感じる時、私たちは拒否されるような態度を示す傾向にあるからだ。それは強い思い込みになる。この過剰な景観感の状態で、個人は拒否や冷淡さにとても異様なほど過敏になる。何かを必死に見つけようとする時、何が起きるだろう?たいてい私たちは、それを見つけてしまう。

孤独にある人達が、何故、外に出て交流を加わろうという考えを受け入れない傾向が強い理由はこれかもしれない。他の人が自分よりも優れていると考えることは、自分は他の人よりも優れていると考えて他の人と交流しない言い訳にするのと同じだ。どちらの考え方は交流から身を引くという状況を加速させる、更に社会からの隔絶という感情を強めてしまうことになる。そのような状況に至ると、ヴォランティア活動に参加する、勉強会に加わる、もしくは電話に堪えることすら難しく感じてしまうだろう。

誰もがビルのようにラジオ局の助けで多くの新しい友人を見つけられることはないだろう。では、どうすれば良いだろう?最初に、自分が孤独であることを認識してみよう。孤独であることを拒否してはいけない、また、孤独であることが悪いと思わないようにしてみよう。そして、孤独であることが自分にとってどういうことなのかを理解してみる。思い出して欲しい、社会的存在である我々にとって、孤独は危険であることを。三番目に、自分が過剰に何かを警戒していることが判るようになってみる、そしてそれを乗り越えられるように。孤独感によって所汁不信感に固執する理由に過ぎない優越感、そして劣等感を見つめてみることも。

過剰な警戒感を乗り越えることで、自分が一歩を踏み出すような、読書クラブに参加するような過程にいることを感じられるかもしれない。もしこれらの段階を進むことが不可能、もしくは押しつぶされるように感じるのなら、それらの感情を受け入れてみてはどうだろう。寂しさ、孤独感は危ないから、助けを求めよう。遅すぎることは決して無い。